MAGAGINE

日本の組織は中空(ちゅうくう)である

日本には古から続く「空(くう)」の水脈が流れているように思う。
近代化され、欧米の価値観に影響を受けながら社会、企業が形成されてきている
過程にも過去から受け継いできた大切な水脈を蓄えているように感じる。

この話を取り上げたきっかけは学生時代まで遡る。
夏休みに2か月近く海外にバックパック旅行に出かけ、日本に戻ってきてふと感じた。
なぜ日本にはこんなにも世界各国の料理が日本流にアレンジされて根付いているのだろう?
しかも、何を食べても美味しい。
その時は、さほど疑問を深く追求することもなく記憶から薄れていった。

再びその記憶を思い出したのは、5年ほど前に心理学者で元文化庁長官の
河合隼雄氏の「中空構造日本の深層」という本に巡り合ったことである。

さらに、その後に編集工学を広めている松岡正剛氏の私塾に通学した際に
改めてこの本と向き合うことになった。

「中空構造日本の深層」の骨子は、筆者である河合が日本人を基礎付ける根底として
『古事記』に記載された日本神話に遡ることで見出した中空性にある。

中空性って何??? そのテーマに惹きこまれた。

ざっくりとした要点は、日本神話体系によると天地(あめつち)のはじめに登場する
三神である『タカミムスヒ』、『アメノミナカヌシ』、『カミムスヒ』。

そして、私自身でも良く耳にすることがある天界と黄泉の国の接触を描いた
第2の三神である 『アマテラス』、『ツクヨミ』、『スサノオ』。

さらに第3の三神である『ホデリ』、『ホスセリ』、『ホヨリ』。

物語に登場する第1から第3の三神の共通点として、中心の神として登場する
『アメノミナカヌシ』、『ツクヨミ』、『ホスセリ』に関しては、
ほとんど詳細は語られない無為の神というポジショニングのようだ。

これに関して、河合は『古事記』神話における中空性と表現し、
日本神話の構造の最も基本的事実であると考えた。

日本神話の中心は、空であり無であるのだ。

これは、それ以降発展する日本人の思想、宗教、社会構造などの
プロトタイプになっていると考察している。

論理的には飛躍を感じつつ、この捉えどころのない感覚は腑に落ちる思いである。

神話の中で第2の三神である『アマテラス』、『スサノオ』の対立場面が描かれるが、
どちらかが善で、中心だ、と完全には決められずに、時にはどちらかが善であるように
見えても、次には適当な揺り戻しによってバランスが回復される。

何かを中心に置くかのように見せながら、その次にそれと対立するものよってバランスを回復し、
中心の空性を守るという現象が日本神話では繰り返し生じるのである。

なんとも曖昧である。

松岡正剛塾長も日本には至るところにこの中空構造が存在するとお話されていた。
代表例は神社である。神社は中心に行けば行くほど、何も無くなっていく。
中心に魂匣(たまばこ)のようなものがあるが、たいていは何も入っていないか、
適当な代替物しか入っていないし、鏡があるが反射するだけで神という実体が無い。
そればかりか日本の神々は常住せずにどこからかやってきて、
どこかへ帰っていく訪問神という存在である。

さらに松岡塾長は、日本は中空構造をもっているとともに
実は多中心構造とも考えるべきと言われていた。
日本が一つの中心をもったことはなく、都が頻繁に遷都されてきたように、
中心はよく動き、うろつきまわってきた歴史となっている。
例として、南北朝時代の天皇家、天皇家と将軍家の並立などについて触れていた。

再び河合に戻ると、日本の神話ではヘーゲルの弁証法で言う正(テーゼ)・
反(アンチテーゼ)・合(ジンテーゼ)という止揚の過程ではなく、
正と反は巧妙な対立と融和を繰り返し、合に達することがなく、
あくまで正と反の変化が続くことを述べている。

西洋的な弁証法においては、直線的な発展のモデルが主流であるが、
日本では正と反の巡回により空性を体得する円環的論理構造になっているようだ。

禅で言う円相のイメージも近い。

さらに河合は、権力を持つものによる「統合のモデル」と力やはたらきをもたいない中心が
相対立する力を適当に均衡せしめている「均衡のモデル」という概念で対比させている。

簡単に整理すると、

1)「統合のモデル」
・合理性を中心に矛盾を含まずに論理的に整合性をもつ体系を樹立することによって
自然科学が大いに発展した。現在の科学技術の礎と言える。
・体系と矛盾するものはすべて組織外に排除する傾向をもち、排除に強力なエネルギー
を必要とする。対立するイデオロギーの排除が起こる。

2)「均衡のモデル」
・中心を空として、善悪、正邪の判断を相対化し対立するものの共存を許す。
・有事の際にリーダーシップや責任の所在がうやむやになる。
大震災への対処や上場企業の会計不祥事など記憶に新しい。

上記を踏まえて、この中空均衡構造なるものは、日本の企業論、組織論にどのようにあてはまるのだろう?
一つの切り口にすぎないが、「統合のモデル」と「均衡のモデル」を人(チーム)に見立てた場合、
絶対的な創業者(創業者にも個性があるので、わかりやすく極めて合理的に意思決定を行い自身の
主義主張に絶対的に自信を持っているリーダーと仮定する)を要する企業で継続的に成功を収めている
企業もあれば、創業者のエゴが色濃く出たことにより失墜している企業もあるように考えられる。

一方、中空均衡構造により自己生成的なバランスを保持して成功している企業もあれば、意思決定や
責任の所在が不明になり、真の経営チームが不在になってしまった企業もあるかもしれない。

外部から観察すると絶対的存在の創業者と思わせながら、実態は中空均衡のプロセスを尊重している
経営者も存在するだろう。

さらに企業が継続を前提とした生態系とするならば、一時点の結果だけを取り上げて
評価判断しても実態は捉えてない。

生態系とは、ゆらぎながら維持されていくことが自然だからである。

外野の立場で「あれこれ」と言ってみたところで、企業は現場に身をおいて具体的な力学を
経験してみないと明確には表現できないと思う。

「統合のモデル」と「均衡のモデル」の利点と欠点を簡単に記載したが、河合は、日本の
中空均衡構造について留意するべきことを追記しており、中空の空性がエネルギーの
充満したものとして存在する、いわば、無であって有である状態にあるときは、
それは有効であるが、中空が文字どおりの無になるときは、その全体のシステムは
極めて弱いものとなってしまうと伝えている。

無であって有である状態という言葉の絶妙さに、「生命や生態系が環境に適応するための
執着や恐れなどを適度に手放し(脳は恐れの感情を完全には手放せない。手放すと死に
直結するため防衛本能が自動で働く)、生命本来の活動エネルギーを自由に発揮している」
ようなイメージが湧いてくる。

一方、文字どおりの無の状態とは、そこに人の意思、活動のエネルギーが反映されない無関心な
状態と言えるのではないか。(ちなみに状態に対して、私としては、有の状態は良くて、無の状態
は良くないという二元論的考えを述べたいのではく、文脈において状態が何を意味するが大切である。)

これらが示す状態については、今後のテーマとして探求を続けたいと思う。

予定より長い文章になってしまったが、なぜこの書籍を取り上げてみたかったのか?を最後に記載したい。
それは、この本が日本の企業や組織を理解する一つの切り口として、示唆に富んだ視点を提供してくれるからである。

科学技術、情報技術の進化、深化による速い環境変化において、組織運営は求心力となる統合された
合理的な軸を持つと同時にあらゆる階層から自発的に中心となりえるテーマ(可能性)を
ぶち込んでくる均衡的プロセスが必要であろう。

テーマには、ヴィジョン、コンセプト、技術、考え方、人などいろいろなものがあると思う。
共創が求められる時代において必要に応じてテーマを柔軟に切り換えていくのである。

日本の精神史も中国大陸から伝来した仏教や儒教などを中空構造の中心に取り入れたように見せながら、
日本的構造の中に様々なカタチで時代のニーズに合わせて再編集され日本化してきたが、
必ずしも一つの考え方が中心にとどまることはなかったのである。

その結果、一時期を除き神仏習合などの共栄共存をもたらしている。

冒頭の自身の問いに対する一つの答えとしては、日本が中空構造だったことで、
様々な世界の調理法を日本流にアレンジしながら私たちは受け入れてきていると言えるのではなかろうか。

おかげさまで、時々に食べたい各国の料理を満喫できている。

PAGE TOP